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降誕

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この季節が一番好きな倉野です。 いやあ、クリスマスがもうすぐですね! いくつになっても、クリスマスが近づいてくるとわくわくしてしまいます(普段はブログのURLにあるように、666とか悪魔主義全開のことを言っていますが、いいんです! 自分的には矛盾はありません)。 「基督教の風習に日本人は関係ないだろ」「商業主義」など、クリスマスを必ず批判する論調がありますが、嘔吐を催すほど無粋ですね~。 一年に一回、みんながあたたかい気持ちになって、プレゼントを交換し、好きな人(家族でも、恋人でも)と一緒に過ごす、って日があったほうが生活が楽しくなるのは間違いないでしょ、そこのあなた!! それに、探偵小説でいくと、シャーロック・ホームズに『青い紅玉』という作品がありますね。 宝石盗難という犯罪が一応起こるのですが、誰も不幸にならずみんなハッピーで終わる素敵なクリスマス・ストーリーです。 名優ジェレミー・ブレットが演じた英国グラナダテレビ版ホームズでは、ラストで「クリスマスは愛と寛容の季節だ。その精神を大切にしよう」とホームズが言い、クリスマス精神をより強調したものになっています。 愛と寛容の季節、なんといい言葉! ギスギスした世知辛い世の中ですが、ホームズの語るこのクリスマス精神を我々も分かち合いたいですね。 そういうわけで、クリスマス大好きな私ですが、上京以来何故か独りでクリスマスディナーを自宅で食べることが多いんです……。 どういうわけでしょうね? でも、独りで過ごす静かなクリスマスというのも、これがまた趣があっていいんですね~。 自分へのクリスマスプレゼントはしっかり買ってるし……え? 寂しくなんかないよっ!! Merry Christmas to You !!

絵画

絵画については何もわからない倉野です。 表紙の装丁などを決める時も、画家の方が描いたラフなデザインを見て、「ほー」「へー」などと言うばかりで、有意味なことを言った記憶がありません。 それくらい、絵画には疎いです。 しかし、自分の育った記憶を辿ると、その理由もわかる気がします。 私は幼い頃から、絵を描くのが好きな子供でした。 私の幼い頃のアルバムには、私が描いた種々雑多な絵が挟まれています。 今になってそれを見ても、思わず頬が綻ぶ感じの、稚拙ですが無邪気な絵が並んでいます。 そう、私は絵を描くのが好きだったのです。 では、何故絵画に一向興味がない大人になったのか。 それは、私が小学校一年の時に遡ります。 小学校に入学した私は、絵が好きなものですから、きっと得意になって絵を描いていたと思われますが、担任のF先生がそれを見て「絵に描かれた人物が、ロボットみたいで気持ち悪い」と言ったのです。 その時幼かった私でも、今になってもはっきり思い出されるほど、その言葉は衝撃的でした。 「ロボットみたいで気持ち悪い」……。 自分の絵、ひいては自分の人格が全否定されたと思った私は、それ以来絵を描くのが大嫌いになりました。 幼い私でさえ、そうはっきりと認識できたのです。 小学六年になった時の担任が理解のある人で、「おまえが絵がうまい。だからどんどん描け」と言ってくれて、私の風景画をコンクールに送ってくれたりして、その時だけはやる気は起きましたが、「気持ち悪い」と言われた傷を埋めることはできず、今に至ります。 私が絵を描くのが嫌いです。 私は教育者に言いたい。 子供の個性、可能性を伸ばすのが教育者だぞ、と。 芽を摘むのなんて、誰にでもできる。 他人が摘みそうになった弱い芽でさえも、これは確かだと思ったら、それを守って伸ばしてやるのが教育者ではないか、と。 「ロボットみたいで気持ち悪い」なんて、一個人の主観的な印象でしかありません。 それを乗り越えて、「変な絵だけど、こいつが好きなのだから、どんどん描かせるべきだ」と何故F先生はならなかったのでしょう? 私は、ここに日本の教育の問題点が現れているようでなりません。 その子供が好きなことを伸ばす――私みたいに、好きな分野を嫌いになる子供がこれ以上現れないことを祈ります。

美味

普段からなんでもおいしく食べる倉野です。 好き嫌いは、ほぼありません。 そんなわけで、高級なレストランなどに行って、今まで食べたことのない味に出会っても、やっぱり「おいしい!」と思ってしまいます。 しかし、改めて「おいしいもので何を食べたい?」と問われると、悩んだ末に出てくる料理は「エイの煮付け、サメの湯引き、おばいけ、ナマコの酢の物……」系のものなんです。 「エイやサメ?」と思った方――私の故郷福岡は玄界灘に面しているので、いろいろな魚介類が手に入るんですが、私の小さい頃は新鮮で臭みのないエイやサメが手に入りました。 それでよく食卓に上っていたんです。 子供の頃からそれらを食べ慣れていたわけですが、正直子供の舌には煮付けや湯引きなどはまずくはないですが、そんなに美味とは思われませんでした。 まあ、大人の味ですね。 しかし、この年になってみると、妙にその味が懐かしく、かつとても美味であったように思われるのです。 一方、私の父は、子供の頃に食べた黄色いもったりしたカレーが食べたいと言います。 そして母が似たようなカレーを作っても、「こんな味じゃなかった。もっとおいしかった」と。 父が子供の頃に食べたカレーも、恐らく実際はうまいものではなかったと思います。 しかし、懐かしさを伴う味が凝縮されると、それが究極の美味に昇華・夢想化されるようなんです。 私のエイ、サメ、おばいけなどもそうです。 おいしいかどうかにかかわらず、子供の頃に慣れ親しんだ味が、懐古フィルターを通されて美味になったんでしょう。 美味の根底は懐かしさにあり、ということを再認識したしだいです。 そして私は今日も思うのです。 「ああ、エイの煮付け食べたい……」

飲助

筋トレとジョギング後に、シャワーを浴びてさっぱりして、録画していた『吉田類の酒場放浪記』を見ながら、ビール、チューハイ、日本酒を傾けた倉野です。 いい気分です。 前にもちらっと触れたこの番組、本当に面白いです。 民放系BSで一番数字を持っている番組とも言われているそう。それも頷ける。 吉田類さんが纏うゆるーい空気と、町の居酒屋が持つこれまたゆるい雰囲気がフュージョンして、絶妙な空気感を産み出しております。 類さんは居酒屋を紹介する酒場詩人としてはかなりのオーソリティと思いますが(万を下らない居酒屋を訪れたとネットのインタビューでおっしゃってたような)、そんなことを微塵も感じさせないところがよいです。 時々酒や肴について知ったかぶる、他客の肴を強奪、からしつけ過ぎ、などなど、およそオーソリティとは思えぬクスっとくる行動の数々がよいアクセントになり、ただゆるくなるだけに流れがちな番組をあくまで柔らかく締めています。 常連客がたむろしている地元密着居酒屋なんて、実際入ろうと思ってもなかなか入れないんですが、なんだか行ったことがあるような錯覚をもたらしてくれるこの番組、いいです。 というか、今度近所の非チェーン系居酒屋に勇気出して行っちゃおうかな、と思わせるものを持っています(さすがにひとりでは行けないので、誰か誘ってね)。 そして当日は駅紹介、駅前の散策、からの、居酒屋突撃をして、飲んだ後は「もう一、二軒行っちゃいますかね」と後ろ手で去っていく「類ごっこ」をやってみたいと思います。 類さんは講演もいろいろやってらっしゃるようなので、そのうち類Liveを堪能したいと思います。 あー、いっぺん類さんと一緒に酒呑みたい!

懺悔

今年も残すところ1ヶ月ちょっとですね。 12月18日頃店頭に並ぶ予定らしい、南雲堂さんの『本格ミステリー・ワールド2013』の「作家の計画・作家の想い」の項で、コラムを書いています。 今回は、大好きなバンドL.A.Gunsについて語っています(および、近況報告もちょこっと)。 どうかお買い求めください。 昨年の決意としては、「一年に一作出す」というものだったのですが、今年はいきなり諸事情で新作が出せませんでした。 私の本を待っていらっしゃるかもしれないハードコアなファンの方々には、誠に申し訳ないことです。 来春には出せそうですので、どうか見捨てないで~! そういえば、暇にあかせて、『幻覚について』という50枚の短篇を一本書き上げました。 しかし、短篇が大の苦手の私、「これは果たして面白いんだろうか?」と自分で思いながら書いていました。 一応、文藝春秋の担当編集者さんに送りましたが、日の目を見ない公算が大きいと思われ……。 そんなこんなで、来年はもっと文筆で働こうと決意を新たにする倉野なのでした。 余談ですが、このブログ、「倉野憲比古」で検索しても、上位に表示されませんね。 というか、検索順位をずるずる下げている状態です。 インターネットに詳しくないので、どうしたらいいのかわかりませんが……。 このブログも来年は千客万来となってほしいものです。

愛憎

承前  倉野投手は2004年に初めて導入されたパリーグプレーオフでも、絶体絶命のホークスを救う快投を見せました。 本人曰く、試合前は吐きそうだったと。その重圧をはねのけて、チームを勝利に導きます。 惜しくもプレーオフ最終戦でホークスは敗退しましたが、その快投ぶりは「谷間に咲く一輪の花」とも形容され、ファンの喝采を浴びたのです。 ところが……ここからが、今回記事の肝なんです。 それから引退までの2年間、倉野投手は思ったような成績を残せませんでした。 私は歯嚙みするような思いで、彼を見守ったものです。 そこで、私の精神に変質が生じました。 倉野投手を好き過ぎるあまり、「ホークス負けろ!」と呪詛するようになったのです。 どういうことかというと、倉野投手が活躍するには、勿論本人の快投が絶対条件です。 しかし、それが叶わぬ時には……? 周りの投手が打たれるのが、倉野投手にチャンスが回る最短距離となります。 そこで、「ホークス投手陣打たれろ!」がさらに嵩じて「ホークス負けろ!」とマイナス要素だけが凝固していったのです……。 ホークスは好きだが、倉野投手がいる限り、負けてほしい――このアンビヴァレントな心理! 確かに私は恥ずかしい。 これがチームのファンでなく、個人のファンである人の陥りやすい罠だとは、私もわかっていました。 しかし、しかし、わかっていながらも、その陥穽、修羅の道に私は足を踏み入れてしまったのです。 それは何故なら、私が倉野投手を大好きだから! 倉野投手を応援する過程でいつの間にか愛し始めていたホークス球団自体をも、私は日々呪詛し、投手陣を呪うという魔道……。 これは倉野投手が引退する日まで続きました…… この異常なファン心理! これが私のホークスとの愛憎の歴史の顛末です。 やっと今は倉野コーチ(今はホークスの三軍投手コーチであります)のブログなどを冷静に眺められるほど更生しましたが。 更生したとはいえ、今でも倉野コーチには一目会ってみたいですけどね! ぐひひ。

運命

おはようございます、野球大好きの倉野です。 こんな素晴らしい野球人がいたと紹介する(?)、今回の記事は長いですよ~。 ちなみに、私の昔から贔屓の球団は、日本ハムファイターズ。 「え、福岡出身なのに、ホークスを応援しないの?」と疑念を抱く向きもありましょう。 ホークスが福岡移転する前よりファイターズファンの私からしたら、ホークスは単なるライバル球団の位置づけに過ぎないのです。いや、過ぎなかったのです……。 というのは、事は私の大学時代に起こりました。 新聞の大学野球の記事を読んでいたら、青山学院に倉野信次といういい投手がいる、と出ていました。 ここでもう「え?」ですよ。 倉野姓ってなかなかいないんですよね。私は立教で、彼は青学――大学こそ違えど親近感が湧きました。 しかも調べると、自分と同い年、同じ身長、同じ血液型、しかも倉野投手は宇治山田高校(進学校らしい)の出身。我が倉野家も、祖父の憲司の時代には、宇治山田に住んでおったことがありました。 ここまできて、これを単なる偶然の一致と捨てされるものでしょうか? 否! しかもしかも、倉野投手はドラフト4位指名でホークスに入るという! ――我が故郷の球団へ。 これはもう、運命的な邂逅と言ってしまっていいでしょう! こうして私は一時的にファイターズを放り出し、倉野信次フリークとして、ホークスファンになったのです。 倉野投手は入団一年目にジュニアオールスターでMVPを獲り、二年目のペナントレース前半戦ではもう一軍の中継ぎでガンガン投げてました。 中継ぎも先発もできる使い勝手の良い選手なので、五年目には先発、中継ぎ、抑えと大車輪の活躍で、7勝4敗1Sの好成績をあげます。 しかし! 彼の野球人生の頂点は、間違いなく2004年でしょう。 2004年――寺原投手が無事に投げていれば、倉野投手が二軍に落とされることになっていた、開幕直後の西武戦。 寺原が序盤から乱れ、すぐにロングリリーフのできる倉野投手にスイッチ。(確か一死満塁かなんかの大ピンチで回ってきたはず)。 そのピンチをものともせずに後続を打ち取ると、ロングリリーフの適性を首脳陣に遺憾なく見せつけます。 こうして倉野投手の二軍落ちはなくなり(代わりに二軍落ちしたのは寺原投手だった……)、この年はずっと一軍で働きました。 途中

夢境 

眠れない頭を抱え、「えい、畜生」と明け方四時にマイスリー十ミリグラム錠を口に放り込む。 二時間半後、目が醒める。といっても、半睡半醒。 カーテンを閉めた映画館のような、階段教室のような薄暗いところで、近い席同士の人間と獣が一緒に何かしている。 私は、洋服を着た恰幅の良い豚と、七輪で焼肉をしている。 煙が他の人々の迷惑にならぬか心配しながら、相手の豚に声をかける。 「これじゃあ共食いだね」 豚は目をさらに細めて笑い、「イエ、最近はそうでもありません」 「何がそうでもないのだ」と内心不可解に思いながら、館内(?)が白々としてきたのは、七輪の煙のせいばかりではなかった。 カーテンの隙間から白い朝陽が差し込み始めると、恰幅の良い豚も、秘密めかした麒麟のおばさんも、霧みたいにどこかへ行ってしまった。 気づくと私はまだ、ベッドに寝ていた。 今見たものは、何かの小説本から抜け出てきた光景だろうか、とぼんやり考えた。

開店

志賀直哉の小説を今日読んでいたら、「小間物屋を開く」という表現が出ていました。 文脈で大体意味はわかったものの、やっぱり「はて?」と思い、辞書を引いてみたら――「へどを吐く」の俗語でした。 小間物屋が店先にいろんな細々した商品を並べて出すところから、飲んだり食ったりした物をいろいろ吐くことの比喩だそうな。 随分と洒落た表現ですね。面白い。 これから忘・新年会の季節、街のあちこちで小間物商人が店を開くことになるので、気をつけなきゃいけません。 私も開店しないようにします。

嗜好

作品中からも窺える通り、私は煙草が好きです。 厳密に言うと、「好きでした」。 現在は、人生何度目かの禁煙中です。 煙草を吸って二十年以上、最初に吸ったのは今はなきバンテージでした。 それから、日本で発売された紙巻きは大体一度は手を出してみたかな。 大学時代が、いちばんいろんな銘柄を吸っていた時期だと思う。 日によって、違う煙草を吸ってました。 結局喫煙歴が長かったのは、定番のマールボロ・メンソール・ライトでしたが。 小説の主人公・夷戸君はゴロワーズ・レジェールを吸っていることになっていますが、あれはフランス煙草のお洒落さ加減で決めただけです。 実際は、好きな煙草ではなかったなあ。 なんか粉っぽいような発酵したような、独特の味がして。 二度と吸うまいと思った。 煙草と同様に、お酒も大好きです。 麦酒と日本酒が好き。 日本酒は、珍しく東京で作っている「屋守(おくのかみ)」がお気に入りです。 池袋にある、たまに行く日本酒居酒屋では、必ず頼みます。 麦酒は特に銘柄によって好みはありませんが(アサヒはちょっとだけ苦手かも)、ギネスがあればとりあえず飲んじゃう。 麦芽100%系の麦酒がやっぱり好きかもしれません。 私がレッドアイ(麦酒のトマトジュース割ですね)を飲み始めたら、「ちょっと酒を飲むのに疲れた」という意味ですので、お察しください。 お酒といえば、BS-TBSでやっている『吉田類の酒場放浪記』が好きで、毎週録画して観ています。 修行を重ねて、酒場詩人・吉田類さんみたいなオヤジになりたいと思っている昨今です。 新作『弔い月の下にて』では、色々な煙草や麦酒が出てくるので、好きな人はちょいと注目してくださいね。

残夢

私は一時期、内田百閒を読まねば夜も日も明けないという時期がありました。 最近こそ、その衝動は薄まっていますが、一昨年あたりはどっぷりと百閒の世界に浸っていました。 ちくま文庫の『内田百閒集成』は勿論全巻集め、それだけでは欠落している作品が多いと知り、他の出版社から出ている百閒の本を買い漁りました。 普段は評論などいっこうに読まない私ですが、ユリイカの「内田百閒特集」も手に入れて、読みました。 師匠である漱石の『夢十夜』の系譜を継ぎ、夢と現実のあわいを文学化することで一躍文名を上げた百閒ですが、私もそういう作品が書きたくて、夢から得たインスピレーションを書きとめていた時期がありました。 しかし、自分が見た夢をその骨格を保ちながら作品化しようとしても、どうもうまくいかない。 単純に言えば、つまらない。 詩人の川田絢音さんは、見たままの夢を詩にしたような作品を多く書いていらっしゃいますが、その境地に至るのはなかなか難しいと知りました。 ただ、自分の見た悪夢がどういうパターンかというのは、書きとめているうちに分析できたようです。 ある悪夢を見ていて、やっと夢から醒めた、と思ったら、まだ夢が続いていて、不可思議な事件が続々起こる、というパターンです。 このパターンの悪夢は、先週も見ました。 あれ? このパターンって、自分の作品にも知らず知らず反映されていたのでは――? と思わされました。 実は二年くらい前に見た悪夢のひとつから、怪奇短篇をひとつ書いてみようかと思ったものがあります。 それは割と骨格がしっかりした悪夢で、小説化するのに苦労がいらない感じですが、果たして面白くなるんだろうかと躊躇し、まだ書いていません。 加えて、最近見た悪夢からインスピレーションを得て、探偵小説化しようと準備しているものもあります。 今年は新作の最終的な改稿と、南雲堂さんの『本格ミステリーワールド2013』のコラム以外(今年も性懲りもなく書いてます)、物書きらしい仕事をしなかったので、今年残りの二ヶ月でひとつがんばってみようかと思っているしだいです。 発表するあてはありませんがね。

播摩

文学でも音楽でも、全体としてはいまひとつ心に響かなくとも、「この部分だけは百点満点!」といった箇所を持つ作品があります。 私にとって『暗夜行路』がそんな作品のひとつです。 筋は大抵の方が知っているでしょうから省きますが、割と最初のところで出てくる夢の話が抜群にいいのです。 主人公が寝ているところへ、知人が妙な笑顔で入ってきます。 そして阪口という男が旅先で死んだことを告げるのです――「播摩をやったんだそうだ。――到頭やったネ」と。 主人公は「矢張りそうか」と思い、播摩というのはよくわからないけれども、命がけの危険な方法で、阪口がそれを大阪で教わったということは知っているのです。 阪口というのは淫蕩のためにはあらゆる刺戟を求める男だったが、播摩まで堕ちたかと思うと主人公はぞっとします。 「播摩と云うのはどうするのだ」と主人公は訊きかけますが、聴いたら屹度自分もやる、と思い、さらに慄然とするのです。 ……ここまで読んで、私は(あるいは大抵の読者は)「播摩って何だ―ッ!?」という凄まじい疑問に囚われるのです。 新潮文庫版の注解には、ただ「性交態位のひとつ」と素っ気なく書いてあるだけです。 この注解を読んでさらに、読者はめくるめく妄想の世界に没入することになります。 播摩――やったら死んでしまう体位、聴いてしまったら屹度やりたくなり、命を落とす――まるで強力な麻薬のようなものを想像し、どんな格好をするのかなんてさっぱり想像がつきませんが、とにかく禍々しいものだろうくらいは思いが至ります。 読者はもう播摩の虜になり、その言葉が頭にこびりついて離れなくなります……。 これが『暗夜行路』で「百点満点!」な部分です。 正直、粗筋はあまり憶えていなくとも、「播摩」の部分は憶えている方もいらっしゃるのでは。 ちなみに『暗夜行路』では、妻が走り始めた汽車を追いかけて乗ろうとしたところを、主人公が何を思ったかホームに突き飛ばす場面も、個人的には百点満点です。 全体としては楽しめなくとも、部分的には「さすが」と思わされるところがあるのは、やはり名作なんでしょう。

余裕

今晩は、漱石愛読者でもある倉野です。 名だたる長篇の数々は折にふれて述べるとして、今回は小品の中でも光彩陸離たる『夢十夜』について語ろうと思います。 といっても、「夢と文学」とかそういう御大層なことを語ろうと言うんじゃござんせん。 「第十夜」で出てくる(厳密に言えば「第八夜」にもちらりと登場する)人物について、語ろうというのです。 第十夜は庄太郎という男の話です。 彼は町内一の好男子、善良な正直者で、唯一の道楽といってはパナマの帽子を被り、夕方になると水菓子屋の店先に腰をかけて、往来を通る女の顔を眺めています。 そうして、ここがふるっているのですが、女の顔を眺めては「頻りに感心している」のです。 往来を歩く女の顔を眺めては、頻りに感心している――! これはなんという解脱の境地だ、と私なぞは思うわけです。 昨今、とにかく何にでも嚙みついて、批判してこそ一人前、という風潮がないでしょうか。 とにかく価値下げをすれば相手より一段高みに登れて、そうして一段下げた相手は矢鱈滅多ら貶めてもよい――こういうある種危険な批判精神をそこここで私は感じます。 勿論批判精神は大いにあってしかるべきですが、現代はそれが行き過ぎていないか、と思うわけです。 そこでいくと庄太郎は、道行く女を見て、「あいつは不細工だ」とか「ちょっと口の感じが厭だな」とか思うわけでもなく、頻りに「感心」している。 この余裕を私は面白く思い、見習いたいのです。 しかも庄太郎は、あまり女が通らない時は店先の水菓子を見て、この籠は綺麗だとか、商売をするなら水菓子屋に限るとか言いつつ、相も変わらずパナマ帽を被ってぶらぶら遊んでいる。 余裕綽々の極みだと思いますよ、これは。 私はまず批判から入るのではなく、物事の良い面、褒めるべき面を見ていきたいな、と常に自戒しています(自戒するくらいですから、なかなか難しいのですが)。 私も含めて、行き過ぎた批判精神におかされた現代日本人は、庄太郎主義を見習うべきではないでしょうか。 しかし、庄太郎的余裕主義も行き過ぎると、豚の鼻頭を七日六晩叩いて、パナマ帽を健さんに取られることになるので、気をつけなきゃいけませんがね。 漱石って、本当に面白い話を書くなあ。

附録

最近、附録付き雑誌に目覚めた倉野です。 現在買っているのは、デアゴスティーニから出ている、「コンバット・タンク・コレクション」。 毎号、一台ずつ戦車の模型がついてます(その分、値段も結構するんですが)。 本当は全号集めようかなと思って買い出したんですが、総刊百号を予定と聞いて急に怖じ気づき、第二次大戦の時の戦車だけ買うようにしました。 そんな百台も戦車模型を置けるスペースないし。 ま、第二次大戦時のドイツ軍とソ連軍の戦車・装甲車輛しか元々興味ないしね。 それともうひとつ買っているのが、講談社から出ている「あぶない刑事全事件簿DVDマガジン」! わたくし、何を隠そう「あぶデカ」の大ファンなんです。 デビュー作『スノウブラインド』の章題やこのブログの記事タイトルが、漢字二文字になっているのも「あぶデカ」のパクリです(これには担当編集者さんも気づいてくれませんでした……)。 港署のタカとユージの軽妙洒脱な台詞の掛け合いには、大きな影響を受けました。 実のところ、ああいうユーモラスでお洒落な台詞の掛け合いを自作にも取り入れたくてたまらないんですが、作風的にそれを許さないので、残念でならないという……。 しかし、新作『弔い月の下にて』には、ダンディ根津とセクシー夷戸なんて台詞も出てきますし、ユージの有名な台詞にオマージュを捧げた場面もあるので、刊行されたら「あぶデカ」ファンの方は探してみてくださいね。 いくぜっ!

祖父

私のペンネームは本名そのままです。 よく「ペンネームっぽい本名だね」と言われます。 下の名前は父方の祖父が、色々と考えてつけてくれたのですが、今回はその祖父の話を。 父方の祖父・憲司は、国文学者でした。 古事記研究に一生を捧げた人で、大学を退官後もそうとう老齢になって弱るまで、自宅で仕事を続けていました。 この祖父は、国文学者を志す前には、小説家になりたいと思っていたそうなんです。 しかし、同級生に大変小説のうまい男がおり、彼の小説を読んで「これでは自分はかなわない」と見切りをつけ、上代古典文学の道を志すことになったんだとか。 私が物書きになったのも、そういった遺伝子が多少は関係しているのかも。 祖父の思い出というと、薄暗い北向きの書斎で、背をこちらに向けてひたすら書き物をしていた姿が思い浮かびます。 北向きの窓以外、三方が天井まで書架になっていて、和綴じの本やら専門書やらが、隙間なくびっしりと詰まっていました。 書斎は半分は板敷きで低くなっていて、もう半分は高くなっている畳敷きで、そこに座卓を据え、冬場には右に手あぶりを置き、いつも祖父は勉強していました。 幼い私が顔を出すと、火鉢で餅を焼いてくれたような淡い思い出があります。 そして、散歩が趣味だった祖父は、勉強の合間に、ステッキを振り振りぼくを連れて散歩に出かけていました。 道で知り合いに会うと、「これは僕のペットなんだよ」と嬉しそうに私を指差していたのを憶えています。 明治男の常で、家庭人としてはとても及第点をあげられない人だったようですが、仕事人としては一級だったようです。 私が長じてくると、祖父が日記の一人称を「予」と書くのを何となくおかしく思ったのですが、後に明治の文豪の随筆や日記を読むと、大抵「予」や「余」と書いているのを見て、「時代だったんだなあ」と明治から遠く隔たった自分には何だか羨ましい気がしました。 ちなみに「憲比古」の「憲」は祖父から一字取り、詩経によると文武の手本と仰がれるの意だそうです。 「比古」は古事記の男の神様の名から。 どちらも名前負けしてますね……。 母方の祖父も極めて個性派の人物だったので、そのうち紹介しようと思います。

機銃

さて、チェーホフ作品の中で私が偏愛してやまないもうひとつの作品、『中二階のある家』他について今回は語ります。 この作品は何度再読しても、最後で泣けてしまう佳品です。 ごくごく簡単に筋を言うと、ある少女に恋をした主人公が、その少女の姉と折り合いが悪く、結局別離を経験するというものなのですが、最後の文章が泣けるのです。 ちょっとここに引用してみましょう。(小笠原豊樹訳 新潮文庫版) 「私はもう中二階のある家のことを忘れかけているが、ごく稀に、絵を描いているときや本を読んでいるときなど、突然、あの窓の緑色のあかりのことや、恋心を抱いて寒さに手をこすりながら夜ふけの野原を家へ帰ったときの自分の足音などを、なんとはなしに思い出すことがある。そして更に稀なことではあるが、孤独にさいなまれ淋しくてたまらぬとき、ぼんやりと思い出に浸っていると、なぜかしら相手もやはり私のことを思い出し、私を待ちつづけ、やがて私たちは再会するのではないかという思いが少しずつ募ってくる……  ミシュス、きみはどこにいるのだろう。」 この主人公の述懐! これは薬師丸ひろ子が歌って大ヒットした「セーラー服と機関銃」の「さよならは別れの 言葉じゃなくて 再び逢うための 遠い約束」と一緒ですよね。 別に能天気に再会を信じているわけじゃなくて、もう二度と会えないってことはわかりすぎるほどわかっているんだけど、生きていくためには、たとえ虚しい再会の希望でも信じていかなきゃ、生きていけないこともあるんですね。 人間とはせつない生き物ですね……。 チェーホフの名作と呼ばれるものには、ロシア革命が刻々と迫っていた時代背景もあってか、「絶望とその先に仄見える幽かな希望」をテーマにした物が多いような気がします。 さて、私の作品を読んでくれるような方には、チェーホフといえば『黒衣の僧』という方もいらっしゃるかも。 創元推理文庫『怪奇小説傑作集 5巻』に収められた(近年、松下裕氏の新訳も出ました)この作品は、コズミックかつニューロティックな恐怖をこれでもかと織り込んだ傑作です。 私の新作『弔い月の下にて』も、この作品をモチーフとした描写が出てくるので、期待してください。 チェーホフの怪奇短篇は『黒衣の僧』で決まり! という向きもあるやもしれませんが、私はあえて異を唱えたい。 彼は医大生時代

文脈

実はチェーホフ愛読者の倉野です。 といっても、四大戯曲はさほど好きではありませんが(戯曲は演じられているのを観るもので、読んで面白いものではないと個人的に思っているので……)。 私がチェーホフの諸作品の中で最も愛してやまないのが、中篇『退屈な話』と短篇『中二階のある家』、このふたつです。 『退屈な話』はひきこもり時代に湯浅芳子翻訳版を読んで、女主人公カーチャの台詞に背骨を揺すられるような衝撃を受けました。 粗筋はというと――カーチャは、主人公である老教授の死んだ同僚の娘で、教授が後見人を務めています。 彼女は若い頃に演劇熱に取りつかれ、旅回りの劇団に身を投じたのですが、不幸な恋愛事件によって心身に傷を負い、家に帰ってきました。 そして今は自宅で小説本を読み耽るだけの無為な生活を過ごしているのです。 そんなカーチャを、教授は「働きなさい、もう一度女優を目指しなさい」とたしなめ、励ますのですが、それに対する答えが、 「口に出してほんとのことを言わせたいのですか? どうぞ、もしそれが……それがあなたのお気に召すなら! あたしには才能がないんです! 才能がなくて……そして自負心が多いの! それなのよ!」 という問題の台詞なのです。 ……これは堪えましたね。 私は初読当時、あるひどい挫折を経験したことで自分の才能のなさを悔やみ、それでいて分相応なところで満足できず、結局は一番ダメなひきこもりの生活を選んでいました。 そんな状態で、この台詞です。 読んですぐに思いましたね。 カーチャさん、あなたは私ですよ、と。 世間に対して懐いていた私の鬱屈を、これほど鮮やかに代弁してくれた小説の台詞は、生まれて初めてだったかもしれません。 しかし――松下裕氏の新訳版を数年後に読んでみると、「あれ、この話って、こんなにあっさりしてたっけ?」と思ってしまいました。 カーチャの台詞もそれほど変化したわけではないのに、いまひとつ胸にぐさりとくるものがありません。 あの衝撃を期待して新訳版を読んだ私は、肩透かしを喰らったような感じでした。 ただこれは翻訳家の技量の差異によるものではなく、私の読書時における精神状態やらが、読後感に反映しているにすぎないのは明白です。 世間に対する恨みつらみを必死に腹の中に隠しながら、読書するくらいしかやることがなかったあの時の私に比べて、新訳版を読んだ時は、まだマシな精

口上

初めまして、売れない物書きをやっている倉野憲比古と申します。 ふと急に思い立ち、冷やし中華の季節が終わるとともに、今さらながらブログを始めてみました。 文学、映画、時には音楽のことでものんびり書こうかと思っています。 はたまた時には、謎めいた日常についても書くかもしれません。 さて、ごく一部の方々をお待たせしているかもしれない、私の新作『弔い月の下にて』ですが……原稿はほぼ完成はしていますが、大人の事情により刊行日が延期になり、2013年の2月か3月あたりが刊行候補としてあがっている模様です。 読書諸賢におかれましては、 今しばらくお待ちいただきますよう。 あと、どなたか私のwikipediaを編集していただけないでしょうか? 一作だけ出して消えてしまった物書き状態なので、自分のwikiを見るたびに悲しいのです。 『墓地裏の家』とデビュー作の中国語版『雪盲』についても、どなたか加筆していただければ幸いです。 それでは次回から、本格的に私の言葉のサラダが始まりますので、ご期待ください!