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漢堡

最近、ハンバーガーを頬張る夢ばかり見ます。 特に入眠中にお腹が空いているときは覿面。 しかし、マックなんてもう10年以上行ってないなあ。 今回書きたいのは、そんなことではなく、読書に関する記憶です。 私は読書をすると、その本が面白かろうがなかろうが、読了するとすぐ忘れてしまう。 断片的に憶えていたりはしますが、ほとんどきれいさっぱり忘れる。 寝る前に読書する時は、眠剤を入れているので、そのせいもあるかも。 何でそんなことを急に思ったかというと、読書中の評伝『夏目漱石』で、小宮豊隆が『道草』ではこういう記述がある、『永日小品』にはこれこれが――と引用するのに、すげえと思ったからなんです。 まあ、小宮豊隆は漱石の弟子だから、著作を死ぬほど読み込んでいるだろうし、こういうことも不思議ではないですが……。 その点からいうと、アンソロジストと呼ばれる方々はすごいですね。 東雅夫さんの『文豪怪談傑作選』は全巻読んでいますが、内容以前にそのエネルギーがすごいなと。 各巻のアンソロジーに入れるために、その作家のほとんどの作品を読み込んでいるわけでしょう? まずその読書量がすごい。 そしてメモとかは取ったりするでしょうが、「この作品は使える、これは使えない」と憶えているわけでしょう? うむむ、どういう脳の構造になっているのか。 脳の中にインデックス付きの書庫があるのか。 自分のように、記憶力が乏しすぎる人間にはとてもできない仕事です。 ブログを書くようになってからは、読了後の感想をここにしたためるので、だいぶん憶えているようになりましたが。 それ以前は、ネタになりそうな部分にいちいち付箋をつけてました。 で、後からその付箋部分を読み返して、「なんでこんなところに付箋をつけたんだろう?」なんてね。 乏しい記憶力に関して厄介なのは、自分で創作した時に「これってもしかしたら昔読んだ小説を、意識的には忘れていながら、無意識に取り入れている、つまり知らず知らず(?)パクっているのでは?」という強迫観念に襲われることです。 恐るべし。 では、またんご。

竹鶴

『花子とアン』に続いて、新しく始まった朝の連ドラ『マッサン』も楽しく観ています。 エリー役の女優さん、私が若かりし頃に恋していた米女優、メアリー・スチュアート・マスターソンに似てますね。 「メアリー・スチュアート・マスターソンって誰?」って方がいたら、是非『恋しくて』を観ていただきたい。 エリック・ストルツ、リー・トンプソンと共演した、80年代青春映画の金字塔のひとつです。 ボーイッシュなワッツを演ずる彼女の魅力が(そういえば、この映画は主要キャストの役名が、ワッツ、キース、アマンダ・ジョーンズと、ストーンズにちなんでますね)、いかんなく発揮され、不惑のオッサンがいま観ても、胸がキュンキュンします。 あと、『フライド・グリーン・トマト』もいいですよ。 女性ふたりの友情物語ですが、ミステリー的な仕掛けもチラリとあって。 ああ、観なきゃいけないドラマがいっぱいや~。 では、またんご。

評伝

漱石門下四天王のひとり、小宮豊隆が書いた、評伝『夏目漱石』を読んでいます。 小説でも随筆でもないものを読むのは、いつ以来だろう。 で、暇を見て、上巻のほとんどをつらつら読み終わったんですが……うーん、複雑な心境です。 小宮センセイが漱石を崇拝しているのはよくわかるんですが、あまりにも謹厳、高邁な思想を持った人物として描かれているので、些か辟易してきます。 特に、若い頃の漱石が、友人子規に、義太夫口調や講談口調で洒落て手紙を書いていたことを、「臭味や厭味に充ちて」いて、「趣味が幼稚」とまで言い切っているのは、何だかなあと。 むしろ、若き漱石は、そういった軽妙洒脱な江戸っ子気質を多分に持った、愉快な人物だった、と何故見られないのだろう。 敬愛する自分の漱石像には合致しないので許さん、ということなのでしょうか。 とにかく小宮豊隆の主観に縛られた、堅苦しい理想的解釈のオンパレードなので、中巻・下巻は、小宮の解釈は斜め読みして、漱石がこう言った、こう手紙に書いた、という史料的な部分を重視して読むことにします。 果たして読み通せるんでしょうか? では、またんご。