虚構

原一男監督の映画『全身小説家』を観ました。
この作品はかなり前に日本映画専門チャンネルで観て衝撃を受け、DVDがようやく数年前に再販されてすぐ購入するも、なかなか観る気力が起きず、放ってあったものです。

筋書きはというと、小説家・井上光晴の癌に冒された晩年を追ったドキュメンタリー。

前半は、井上が主宰する「文学伝習所」の門下生のオバサマ、オバアサマ方の井上ラブなメロメロぶりに軽い不快を覚えつつ進んでいきますが、俄然映画が動き出すのは中盤。
関係者への聴き取りから、井上の履歴が虚構であったことがひとつひとつ解き明かされていきます。
これはもう探偵小説を読んでいるかのような戦慄と昂奮です。

そこで翻って、伝習所門下生の心酔ぶりを考えると、それは手練れの詐欺師一歩手前ともいえる、井上の語る言葉の虚実綯い交ぜの魅力も相まっていたのでは、と思わされます。

まあ元々小説家なんて、昔々どこかにほら吹きのうまい人間がいて、王様か何かに「そちの話は面白いのう。ひとつ書にしたためよ」とか言われて書いたのが起源かもしれませんしねえ。
そういう意味では、埴谷雄高御大(映画の要所要所でいい味出しておられます)が言うように、井上は「天才的小説家」であったわけです。

「人生中のA点とB点とC点の三つの事実を選んでみました。それがフィクションです。何故ならそこに選ばれなかったRという事実やXという事実を伏せているからです。事実を選ぶ、ということがフィクションの第一歩なんです」的なことを作中で井上は語っています(カーが『歴史とは何か』で書いていたと思うんですが「客観的歴史事実というものは存在しない。事実を取捨選択する過程で、すでに主観が働いているからだ。故に歴史はすべて、各々の歴史家による主観的歴史があるだけだ(大意)」という言葉を思い出しました)。

井上は人生中の語りたくない様々なつらい事実を直視しないために、いや、反対に、語りたくなるくらいにドラマティックにするために(?)、事実を改変していったのでしょう。
ここに、「天才」である井上の「小説家的悲しみ」が見え隠れしてきます。

終盤で「小説鬼」井上光晴と、プロポリスを勧める見るからにインチキそうな医者が対峙しますが、完全に井上の貫録勝ちなのに笑ってしまいます。
(インチキ医者を見る、井上と寂聴ママの困惑したような、冷めたような、何とも言えない表情が素敵!)

観たばかりで昂奮冷めやらず、まだ感想を消化しきれていませんが、大傑作ですので、是非皆さんもご覧になってみてください。

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