文脈

実はチェーホフ愛読者の倉野です。
といっても、四大戯曲はさほど好きではありませんが(戯曲は演じられているのを観るもので、読んで面白いものではないと個人的に思っているので……)。

私がチェーホフの諸作品の中で最も愛してやまないのが、中篇『退屈な話』と短篇『中二階のある家』、このふたつです。
『退屈な話』はひきこもり時代に湯浅芳子翻訳版を読んで、女主人公カーチャの台詞に背骨を揺すられるような衝撃を受けました。

粗筋はというと――カーチャは、主人公である老教授の死んだ同僚の娘で、教授が後見人を務めています。
彼女は若い頃に演劇熱に取りつかれ、旅回りの劇団に身を投じたのですが、不幸な恋愛事件によって心身に傷を負い、家に帰ってきました。
そして今は自宅で小説本を読み耽るだけの無為な生活を過ごしているのです。

そんなカーチャを、教授は「働きなさい、もう一度女優を目指しなさい」とたしなめ、励ますのですが、それに対する答えが、
「口に出してほんとのことを言わせたいのですか? どうぞ、もしそれが……それがあなたのお気に召すなら! あたしには才能がないんです! 才能がなくて……そして自負心が多いの! それなのよ!」
という問題の台詞なのです。

……これは堪えましたね。
私は初読当時、あるひどい挫折を経験したことで自分の才能のなさを悔やみ、それでいて分相応なところで満足できず、結局は一番ダメなひきこもりの生活を選んでいました。
そんな状態で、この台詞です。
読んですぐに思いましたね。
カーチャさん、あなたは私ですよ、と。
世間に対して懐いていた私の鬱屈を、これほど鮮やかに代弁してくれた小説の台詞は、生まれて初めてだったかもしれません。

しかし――松下裕氏の新訳版を数年後に読んでみると、「あれ、この話って、こんなにあっさりしてたっけ?」と思ってしまいました。
カーチャの台詞もそれほど変化したわけではないのに、いまひとつ胸にぐさりとくるものがありません。
あの衝撃を期待して新訳版を読んだ私は、肩透かしを喰らったような感じでした。

ただこれは翻訳家の技量の差異によるものではなく、私の読書時における精神状態やらが、読後感に反映しているにすぎないのは明白です。
世間に対する恨みつらみを必死に腹の中に隠しながら、読書するくらいしかやることがなかったあの時の私に比べて、新訳版を読んだ時は、まだマシな精神状態だったからです。

湯浅版『退屈な話』は、実は初読以来、手に取っていませんでした(初めて出会った時の感動のままでいたいものってありますよね?)
カーチャの台詞を確認するために、今日久しぶりに拾い読みしてみました。
衝撃的な印象を残した湯浅版を懐かしむとともに、『退屈な話』でもう感動しなくなったのは成長したということだろうか、という疑問に囚われた私です……。

今回は長くなったので、ここまで。
次回はチェーホフ『中二階のある家』他について語ります。

コメント

このブログの人気の投稿

播摩

再開

悲惨