余裕

今晩は、漱石愛読者でもある倉野です。
名だたる長篇の数々は折にふれて述べるとして、今回は小品の中でも光彩陸離たる『夢十夜』について語ろうと思います。

といっても、「夢と文学」とかそういう御大層なことを語ろうと言うんじゃござんせん。
「第十夜」で出てくる(厳密に言えば「第八夜」にもちらりと登場する)人物について、語ろうというのです。

第十夜は庄太郎という男の話です。
彼は町内一の好男子、善良な正直者で、唯一の道楽といってはパナマの帽子を被り、夕方になると水菓子屋の店先に腰をかけて、往来を通る女の顔を眺めています。
そうして、ここがふるっているのですが、女の顔を眺めては「頻りに感心している」のです。

往来を歩く女の顔を眺めては、頻りに感心している――! これはなんという解脱の境地だ、と私なぞは思うわけです。
昨今、とにかく何にでも嚙みついて、批判してこそ一人前、という風潮がないでしょうか。
とにかく価値下げをすれば相手より一段高みに登れて、そうして一段下げた相手は矢鱈滅多ら貶めてもよい――こういうある種危険な批判精神をそこここで私は感じます。
勿論批判精神は大いにあってしかるべきですが、現代はそれが行き過ぎていないか、と思うわけです。

そこでいくと庄太郎は、道行く女を見て、「あいつは不細工だ」とか「ちょっと口の感じが厭だな」とか思うわけでもなく、頻りに「感心」している。
この余裕を私は面白く思い、見習いたいのです。

しかも庄太郎は、あまり女が通らない時は店先の水菓子を見て、この籠は綺麗だとか、商売をするなら水菓子屋に限るとか言いつつ、相も変わらずパナマ帽を被ってぶらぶら遊んでいる。
余裕綽々の極みだと思いますよ、これは。

私はまず批判から入るのではなく、物事の良い面、褒めるべき面を見ていきたいな、と常に自戒しています(自戒するくらいですから、なかなか難しいのですが)。
私も含めて、行き過ぎた批判精神におかされた現代日本人は、庄太郎主義を見習うべきではないでしょうか。

しかし、庄太郎的余裕主義も行き過ぎると、豚の鼻頭を七日六晩叩いて、パナマ帽を健さんに取られることになるので、気をつけなきゃいけませんがね。
漱石って、本当に面白い話を書くなあ。

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