機銃

さて、チェーホフ作品の中で私が偏愛してやまないもうひとつの作品、『中二階のある家』他について今回は語ります。
この作品は何度再読しても、最後で泣けてしまう佳品です。
ごくごく簡単に筋を言うと、ある少女に恋をした主人公が、その少女の姉と折り合いが悪く、結局別離を経験するというものなのですが、最後の文章が泣けるのです。
ちょっとここに引用してみましょう。(小笠原豊樹訳 新潮文庫版)

「私はもう中二階のある家のことを忘れかけているが、ごく稀に、絵を描いているときや本を読んでいるときなど、突然、あの窓の緑色のあかりのことや、恋心を抱いて寒さに手をこすりながら夜ふけの野原を家へ帰ったときの自分の足音などを、なんとはなしに思い出すことがある。そして更に稀なことではあるが、孤独にさいなまれ淋しくてたまらぬとき、ぼんやりと思い出に浸っていると、なぜかしら相手もやはり私のことを思い出し、私を待ちつづけ、やがて私たちは再会するのではないかという思いが少しずつ募ってくる……
 ミシュス、きみはどこにいるのだろう。」

この主人公の述懐!
これは薬師丸ひろ子が歌って大ヒットした「セーラー服と機関銃」の「さよならは別れの 言葉じゃなくて 再び逢うための 遠い約束」と一緒ですよね。

別に能天気に再会を信じているわけじゃなくて、もう二度と会えないってことはわかりすぎるほどわかっているんだけど、生きていくためには、たとえ虚しい再会の希望でも信じていかなきゃ、生きていけないこともあるんですね。
人間とはせつない生き物ですね……。
チェーホフの名作と呼ばれるものには、ロシア革命が刻々と迫っていた時代背景もあってか、「絶望とその先に仄見える幽かな希望」をテーマにした物が多いような気がします。

さて、私の作品を読んでくれるような方には、チェーホフといえば『黒衣の僧』という方もいらっしゃるかも。
創元推理文庫『怪奇小説傑作集 5巻』に収められた(近年、松下裕氏の新訳も出ました)この作品は、コズミックかつニューロティックな恐怖をこれでもかと織り込んだ傑作です。
私の新作『弔い月の下にて』も、この作品をモチーフとした描写が出てくるので、期待してください。

チェーホフの怪奇短篇は『黒衣の僧』で決まり! という向きもあるやもしれませんが、私はあえて異を唱えたい。
彼は医大生時代からユーモア短篇を量産して家計の足しにしていたわけですが、そんなユーモア作家時代に書いた『変人』は優れた怪奇短篇であると。

『変人』は、ある助産師にお産を頼みに来た八等官の男の異常なまでの吝嗇ぶりを描いた十ページほどの小品ですが、読んでいるとなんとも不快な気分になり、冷たい刃で背中をひやりと撫でられるような恐怖を感じます。
化け物も幻覚も何も出てこない作品ですが、心理的に優れた怪奇小説であると思います。
新潮文庫から出ている『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集Ⅰ』に入っていますので、興味のある方はどうぞ!

コメント

このブログの人気の投稿

播摩

再開

悲惨